邦楽のススメ

自称音楽ブログから新たに!日々の映画・野球等多岐に渡る気がするブログ!!

【第四夜】嫌われる勇気 〜褒めても叱ってもダメ〜

第三夜のメインテーマでもあった課題の分離。それは対人関係における入口に過ぎない。。。

○共同体感覚と所属感

対人関係のゴールとは共同体感覚にある。

共同体感覚とは、他者を仲間だと見做し、そこに自分の居場所があると感じられること。

共同体の所属感を得るには、人生のタスクに立ち向かい、積極的にコミットすること。

他者は自分に何を与えてくれるのか?=passiveではなく、自分は他者に何を与えられるのか?=active

つまり、所属感とは自らの手で獲得するものである。

 

○褒めてはいけない!叱ってもいけない!

 褒める行為には上下関係が背後にある。

例えば親が子に対して

「手伝い、頑張ったね」

「宿題できてえらいね」など。

そこには無意識的に上から下の者に対する見下すようなニュアンスが含まれている。何のために褒めるのか?その背景には褒められた側を操作するために褒めている。コンプレックスのような劣等感は縦の関係から生じる意識である一方、全ての対人関係を横の対等な関係を築くことが出来れば、コンプレックスなど生じない。

 

では、叱る場合はどうか?

 

第三夜でも援助と介入の違いに関して説明しましたが、何故、人は他者へ介入してしまうのか?その背景にも先の縦の関係が存在してします。土足で他者の課題に踏み込んでしまう介入には、相手は自分よりも下に見ているからこそ起きる行動。

例えば、親が子に対して、

「勉強しなさい!」

この介入にも先ほどの褒める時同様に、その背景には操作がしようとする意図が無意識的にあります。介入は課題の分離ができていない状態ですが、援助なら可能です。

援助の場合では、「勉強しなさい!」と強制させるのではなく、子自らの力で課題に向き合うように働きかけるようなアプローチが該当します。

 例えば、わからない問題に対して、「なんでわからないの!!」と叱るのではなく、一緒に問題を解いたり、勉強のご褒美を予め一緒に決めておく等(⚠︎ご褒美を一方的に上から目線ではダメかなと、、一緒に考え合意して決めておくのが大事なのかなと)。このような横の関係に基づいた援助のことをアドラー心理学では、勇気づけと呼んでいます。

 何故、褒めても𠮟ってもダメなのか?

 褒めることや叱ることには、無意識的に上下関係が発生し、課題の分離ができていないから。子供と接する際に、そうしてしまうと、周囲を観察しながら、物事を行うような子になる。 

例えば、「先生がいるから勉強しないと!」「親がいないから、ゲームしてもいいや」など。こんな人生を子供に背負わせるのか?先生も親もいなくなる時に困るのか誰なのか?自分の人生は自分で決めてこそなのだ!!

○褒められることと勇気づけの違い

・褒められる→上から下への評価に該当するので、自分には能力がないという信念を形成してしまう。褒められて喜ぶのは、縦の関係に従属している証拠になり、自分には能力がないと自らが認めているようなもの。結局、褒めてもらうことが目的になってしまい、他者の価値観の人生を歩む羽目になる。

・勇気づけ→横の関係における「ありがとう」「助かった」等の感謝の言葉

○自分に価値があると思えるために

 大切なのは上記の内容の通り、他者を評価しないことにある。他者を評価している時点で、すでに縦の関係に該当しているので、他者の人生を歩む羽目になる。そうならないためにも、自分に価値があると思えるようにするには、共同体にとって「自分は有益なのだ!」と思える時にある。つまり、自分は「他者の役に立っている」あるいは「貢献している」と思える主観にある。

主観にあるならば、その主観を変えることが出来れば、自分にも価値があると思えるようになる。

 

○引きこもりにも感謝を

 では、どういう主観を形成していけばいいのか?

著書の答えは、他者のことを行為レベルではなく、存在レベルで見るということです。

他者を行為レベルで見るとは、他者が何をしたか?で判断することです。

例えば、寝たきりの老人や悪ガキ、ホームレス、引きこもりや鬱など、いかにも誰の役にもなっていない、むしろ迷惑なくらいだと思って見てしまうことです。

 一方、存在レベルで見るとは、上記の何をしたか?で判断せず、他者がそこに存在していること自体に喜び、感謝の言葉をかけることです。

つまり、ここに存在しているだけで他者の役に立てており、価値があると思えるかどうか。

例えば、母親が交通事故で意識不明の重傷の場合、

母親が何をしているかはなんてことは考慮せず、命があっただけでも嬉しいと感じるはず。

これでは、なかなか非日常的な出来事なので、もう一つ例を

 親の言うことに一切口答えせず、勉強もスポーツも真面目に熟し、良い高校→良い大学→良い会社に入る。息子や娘にそんな理想を抱いていたとしたら、ちょっとしたミスでも、子供の理想像とはかけ離れてしまって、あれこれと不平不満を抱いてしまう。つまり、100点の理想から減点方式で我が子を見てしまう典型的な評価の発想です。そうではなく、相対的に誰かと比べるのではなく、絶対的なありのままに見て、存在レベルで見て、存在自体を喜び、感謝する。たとえ引きこもりであろうが、その存在に感謝をする。それができるか?なかなか難しいところですね。

 他者をそういった存在レベルで見ることが可能になれば、他者は自分の写鏡で、自分自身にも存在レベルで見ることができ、自分に価値があると思えることになる。

アドラー曰く、「 誰かが始めなければならない。他者が協力的でないとしても、それはあなたに関係ない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうか等考えることなく 」

 

○どちらか一方しか選べない 縦の関係or横の関係

 縦の関係とは、

例えば会社内でAさんには自分よりも上の立場で従順にしているが、Bには下の立場で部下であるから耳を貸さない等

 対人関係において、その相手によって様々臨機応変に使い分けられること。

だが人間はそんな器用な存在ではない。

著書曰く、誰か1人でも縦の関係を築いていたら、自分では無意識的にあらゆる対人関係を縦の関係で捉えてしまっている。

だからこそ、まずは誰か1人との対等な横の関係を築いていくことで、最終的に自分に価値があると思えるようになる。

意識の上で対等であり、主張は堂々としよう!

しかしながら、現代の社会において、なかなか難しい。

著書は続けます。

目上だからなんですか?生意気な意見なのですか?

縦の関係に従属することは無責任な行為である。と

では何故、無責任なのか?

例えば、上司の命令に従って、その仕事が失敗に終わったら、その責任は誰にあるのか?上司?or自分?

一般的には上司の命令なのだから、上司の責任となる。しかし、アドラーは違う。それは人生の嘘である。あなたにはその命令を断ることもでき、対案を出すこともできたはずだ!それをしないのは対人関係の軋轢を避けるため、つまり、責任を回避したかったからではないか?と。

○まとめ

・褒めも叱りもダメ→勇気づけOK

・行為レベルではなく存在レベルで感謝を

・縦の関係ではなく、横の関係を築こう