邦楽のススメ

自称音楽ブログから新たに!日々の映画・野球等多岐に渡る気がするブログ!!

【第五夜】嫌われる勇気 〜幸福になる為には?〜

○自己受容→他者信頼→他者貢献

前回の記述にもあったが、共同体感覚を持つには自己への執着=self interest(ナルシストや自己嫌悪ゆえの自信過剰等)から他者への関心=social interestに切り替える必要がある。そのためには、上記の順序の3つが必要。

●自己受容編 〜ありのままを受け入れる〜

○与えられた物をどう使うか?

第一夜でも紹介したアドラーの言葉は以下の通りです。

大切なのは何(=what)が与えられているのかではなく、与えられた物をどう(=how)使うか?

例えば、Aさんは親の離婚の末、シングルマザーの経済的には恵まれていない出生であった。それを不幸と思ってしまう。これはwhatに囚われた考えであり、子は両親を選べないという変えられない事実であるので、そこにいくら悩む時間や労力を掛けても何の変化もない。著書の哲人曰く、肯定的なあきらめと表現しています。一旦受け入れるしかないというある種の諦めに似た態度だと考えます。

一方、経済的に恵まれていないからこそ、勉強を頑張って、Aさん自身がお金持ちになればいいとポジティブに考えることができれば、それ以降の未来も拓けてくる。これがhowの考え方である。

与えられた物を変えることは出来ないが、それをどう使うのかは変えることができる。課題の分離に通ずる考え方ですが、非常に大事な文言です。

 

○自己肯定と自己受容の違い

自己肯定とは、出来ない事に関しても「私は出来る!」と自身に暗示をかけてしまう。これは優越コンプレックスに結びつく発想であり、嘘の人生である。

一方自己受容とは、出来ない事に関して、出来ない自分もありのままに受け入れる。出来る様になるまで前へ進む。自身に嘘は付いていない。

例えば、テストの点数が60点だった場合

「今回はこんな点数だったけど、たまたま運が悪かっただけなんだ!本当の点数は100点に近いはずだ!」と自身に暗示をかけ、現実逃避しているのが、自己肯定。それに対して、

自己受容は「今の勉強量なら60点だ、、」と一旦そのまま受け入れた上で「んじゃ、100点近づくにはどうしたらいいか?」を模索し、考えることです。

●他者信頼編

○信用と信頼の違い

→条件の有無

信用(=credit)とは、「あなたがこれだけしてくれるから、私はこれだけのことをする」という条件付きのif-thanプログラムです。銀行で例えるなら、あなたがしっかりと返済してくれるなら、100万貸す。

一方で、信頼とは条件なしに一方的に他者を信じること。たとえ信用に足るだけの根拠がなくても、どんなことをされようが、一方的に信じる。裏切られたとしても、損害を受けたとしても、それでも尚、一方的に信じる。それが信頼であり、アドラーのいう愛のタスクである。

なかなかこの態度を現実世界で実行するのは至難の業です。しかしながら、アドラーは続けます。

仮に逆の立場になって考えて見てください。こちらがどれだけ騙しても裏切ったとしても、それでも尚、自分の事を信じてくる人がいる。そんな相手に背信行為を何度も働くことができるのか?(いやできない。反語。)

 

○信じるor疑う

では、信頼の対義語とは?answer:懐疑である。

信頼とは逆の立場である懐疑を対人関係ではどうなるのか?友人や家族、恋人、夫婦までも疑いながら生き続けていく。疑いの目は相手にも敏感に伝わってしまい、直感的に信頼されていないと相手も思ってしまう。そんな中で前向きな今後の関係を築けるのか?(いやできない。反語。)

 

でも、相手も裏切るかもしれないと直感的に感じてしまう時もあるでしょう。ただ、これは相手が裏切るか裏切らないかの選択は相手に委ねられています。つまり、前述の他者の課題に該当し、自分ではどうすることもできない。つまり、相手はこうしてきたが、自分はどうするか?それでも信じるのか信じないのか?それは自分の課題でもあるのです。

例えば、Bさんの彼女(ないしは彼氏)が浮気しているかもしれない場合

Bさんは躍起になって、その浮気の証拠を探します。結果どうなるか?結果:山のように浮気の証拠が見つかる。では何故か?

彼女や彼氏の何気ない言動や行動に初めから疑って見てしまってるので、あらゆる事柄が浮気の証拠に映ってしまうから。それが浮気の事実でないとしても、懐疑でその事実が歪められ兼ねない。

著書の哲人は最後こう締めます。

こう考えてください。我々には信じることが出来ます。疑うことも出来ます。そして我々は他者を仲間と見なす事を目指しています。信じること疑うことのどちらを選択するのかは、明らかでしょう。

 

ここまでを整理します。

自己受容が出来れば、ありのままの自分を受け入れ、ダメな自分も受け入れている状態にある。次に、他者信頼が出来れば、他者へ無条件の信頼を寄せることができ、他者を仲間と思える状態にある。ここまで達成して、最後に他者貢献です。この順序が重要です。

例えば、他者を敵だと見做している人は自己受容も他者信頼も両方不十分であるということです。つまり、自己受容の章を読み込んで、再度実践してみてください。僕もその段階を越えるか越えないかの瀬戸際程度です。

●他者貢献編

他者貢献とは、自己犠牲の精神ではなく、自分の価値を実感するためになされるものである。アドラー曰く、自己犠牲の立場で他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人を社会に過度に適応した人だと警告しているくらいです。要するに、他者貢献とは他者のためではなく、自分のためだと断言しています。

 

○他者貢献は自分のため

他者貢献の具体例として、家事や労働の仕事が該当します。では、仕事の定義とは?仕事とは単なる金稼ぎとしての手段ではなく、他者貢献にある。労働を通じて、他者貢献をなし、共同体にコミットし、私は誰かの役に立っていると実感し、自身の存在価値を受け入れる。

しかしながら、他者貢献が自分のためだというのは偽善にも程があると著書の青年は叫びます。哲人は続けます。

例えば、夕食後の食器が片付けられていない場合

子供たちは自室へ戻っており、夫はソファーでテレビを見ている。妻(わたし)が片付けをするしかない。。。家族は妻が片付けるのが当たり前だと思って、手伝う素振りすらない。普通に考えれば、何故、手伝ってくれないのか?わたしだけ片付けないといけないのか?と他者へのイライラが募る一方です。しかし、たとえ家族からありがとうと感謝の言葉が無かったとしても、食器を片付けながら、わたしは家族という共同体の中で役に立っていると考えてほしいです。他者が何をしてくれるのかではなく、わたしが他者あるいは共同体になにが出来るか?を考え、実践して欲しいのです。その貢献感があれば、目の前の現実が変わって見えてきます。

では、何故このような考えに至るのか?家族のことを仲間だと思えているから。逆に、他者を敵だと見做している場合、イライラや「何故自分だけ?」「皆、手伝ってくれないのか?」と不満が募るようになります。

 

○人生の調和について

対人関係の中で、不愉快に感じる人もいるでしょう。ただそれは精神あるいは物理的に攻撃してくるその人自体に問題があるのであって、皆が悪いわけではありません。男はみんな暴力を振るうとか、いつも自分が損をするなど一部を全体に扱うような口ぶりは要注意です。こうした生き方をアドラーは人生の調和を欠いた生き方だと考えてます。

例えば、ユダヤ教にはこんな話があります。

10人の人がいるとして、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判し、あなたを嫌っている。こちらもその人のことを好きにはなれない。そして、10人のうち2人はお互いに全てを受け入れ合える親友で残り7人はどちらでもない人だ。

この時、あなたは誰に注目しますか?

①嫌う人?②親友?③その他7人?

 

①を選んだあなたは、人生の調和を欠いています。嫌いな人1人だけを見て全体の世界を判断してしまいます。ワーカホリックもまた仕事一辺倒で、家庭などでは責任回避している人生の嘘の典型例です。

 

○幸福になるためにどうすればいいか?

前回同様、アドラーは自分が共同体や誰かに役に立っている他者貢献が幸福に繋がると言っていました。

この他者貢献は目に見えない貢献でも構わない。そして、その他者への貢献が実際上、役に立つものかどうかを判断するのは他者の課題である。つまり、真に他者へ貢献できたかどうかは自分には客観的に判断できないし、分からない。要するに、他者貢献とは自分が持つ主観によって、判断される。これを貢献感と言います。従って、幸福とは(主観的な)貢献感である。

例えば、今あなたが幸福でないとすれば、それは貢献感を持ててないという証拠でもある。

ここで注意しておきたいのは承認欲求とは相容れないということです。

何故なら、承認欲求によって得られた貢献感には自由が無いからです。ここで、承認欲求に関しておさらいしておきます。

例えば、承認欲求を目的に生きてきた親の場合

その親は今まで他者のために生きてきたのだから、その子供に対しても、他者のために生きるように思ってしまう。その他者とは他ならぬ親自身のためです。

親のために生きる子供像を持ってしまう。つまり、他者の望み通りの人生を歩むことに繋がる。これでは自由とは言えませんよね。

○特別な存在であろうとする優越性が引きこもりを生む

誰もが持っている普遍的な欲求の中に優越性の追求があります。この優越性の追求とは、向上心や理想の状態を追求することです。そして、多くの子どもたちもまた最初の段階で特別でありたいという優越性を持っています。特別な存在になる為に、具体的には親の言いつけを守り、勉強やスポーツ、習い事などに精を出します。そのようにして親から認めてもらおうと行動します。しかし、これが上手くいかず、特別な存在になれない場合、今度は一転して特別に悪い存在になろうとします。何故、これまで優等生だった子どもが一転して悪くなってしまうのか?特別良くても悪くても、その目的は同じだからです。その目的とは、他者の注目を集めて、普通ではない(良し悪しに関わらず)特別な存在になろうとしていることにあります。

例えば、授業中に消しゴムを投げたり、大声で妨害したりして注目を集める。その一瞬は先生たちも注意して特別な存在になれる。不登校リストカット、未成年による飲酒やタバコ、引きこもりもそれに該当します。

子供の問題行動に対して叱ることは注目を集める結果となり、結局子供たちは細(ささ)やかな特別な存在を満喫してしまう。これでは先生や親が叱っても逆効果です。こういった問題行動の裏には親への復讐とも関係があり、相手を困らせながら、特別であろうと引きこもりなどの行動に走るのです。

○普通であることの勇気

一般的に普通=無能であると思われがちです。平凡な人生や怠惰な人生を認めるはできない。人生には、高邁な目標が必要なのだ!と

しかしながら、普通≠無能です。

以下、人生を登山に例えてみます。

ノーベル賞や名医のような高邁なる目標とは、山頂を目指すイメージである。人生を賭けて山頂に辿り着くのであれば、途中の登山は人生における途上になってしまう。さて、この道のりの人生の終着点に辿り着くことは出来るのでしょうか?殆どの人が辿り着けず、途中で挫折を味わうことになります。このような失敗に終わってしまうと、多くの人は自分には能力や(登山で言うところの)体力、運などが備わっていない事実に直面します。

上記のように、人生を登山のように考えている人は、人生を線で捉えています。生を受けて、様々なカーブを描き、死へ向かう線。このような人生を物語のように捉えている発想はフロイト的な原因論に繋がり、人生の大半を途上としてしまう考えである。具体的に、線の人生とは、人生設計として良い学校→良い会社→安定した家庭といったレールを思い描くことです。ただ、著書の哲人は計画的な人生など、不可能だと断言しています。

これに対し、アドラー心理学の立場では、人生を連続する刹那であると言います。人生は線ではなく点であると。

例えばピアニストになる為に猛練習をする場合

ピアニストになる夢を持つ人は遠い将来ピアニストになる目的を抱いて猛練習しているのは事実です。しかしながら、その中でも、いつも目の前のイマココの楽曲だけを見て、一曲、一節、一音だけに集中して今を生きていたのではないか?

つまり、今を我慢し犠牲にして、遠い輝かしい未来を生きる線の人生ではなく、イマココをダンスのようにこの瞬間を生きるのが点の人生である。

イマココが充実していれば、それでいいのです。

登山であれば、山頂に辿り着くことが目的なのではなく、その過程の登山自体が目的になる。

まとめると、プロセス=目的・結果になる考えが点の人生である。

 

○イマココを生きて、過去・未来を葬ろう

第一夜にもあったように、アドラー心理学では、フロイト的な原因論の立場を否定し、トラウマをも否定する。過去など意味がない、存在しないと。

では、未来はどうか?

上記の登山の例のように、人生設計すら無意味であり、将来への計画性を過去同様に否定しています。

過去も未来も否定するアドラー心理学の立場でどのように進めばいいのでしょうか?

イマココだけを真剣に生きる。これがアドラーの答えです。イマココに強烈にスポットを当てることで、過去・未来が見えなくなる。過去にどんなことがあったとか未来がどうであるか?などイマココで考える必要はない。真剣に生きていたらそんな言葉は出ないと。イマココを真剣かつ丁寧に生きることこそが大事なのだと。

 

例えば、大学進学を希望しているが、勉強していない場合

受験は遠い先の未来かもしれないが、今勉強していないということはイマココを真剣に生きていない態度でしょう。何から手をつけていいかわからないかもしれないが、毎日一歩一歩を積み重ねることで、今日できたこと(イマココ)にスポットを当てる。数式を解いてみる、単語を覚える、、、。今日という日はその今日できたことのためにあったのです。受験のために今日があるのではありません。

※○○大学合格という大目的を掲げてしまうと、現実と理想の乖離にしまいます。そこで、日々の1日の出来たこと(イマココ)にフューチャーし、目的を小さくすることで、勉強に対する行動を起こさせる。

※実際の著書には載っていない内容です。目標を細分化することで行動可能にする方法を引用しています。詳細はアウトプット大全へ

 

○人生の導きの星へ授けよう

ここまで、嫌われる勇気はどうだったでしょうか?今自分の人生迷っているところでしょうか?何故、迷っているのか?それはあなたが、自由を選ぼうとしている証拠です。

 

そのような方に人生の大きな指針となる導きの星を授けます。導きの星とは、アドラー心理学でいうところの他者貢献です。この指針だけを見失わなければ、迷うこともないし、何をしてもいい。嫌われたって構わない。

○世界が変わればいいのか?自分が変わればいいのか?

(自分が見ている)世界と自分どちらが変わることが簡単なのか?一目瞭然ですが、自分です。自分が変われば、その世界の見え方もまた変えることができる。さて、あなたはどうしますか?アドラーという眼鏡を掛けるのか?眼鏡は目の前にあります。それをあなたが取るか取らないかはあなた次第です。