前回に引き続き、第三夜です。
○課題の分離
例えば、勉強する課題があったときに、誰の課題なのか?母親なのか?当の息子なのか?先生か?これは息子の宿題なので、息子の課題である。よって、親などの第三者が他者の課題に踏み込むのは対人関係においてNG
→見極めるポイント:その選択によってもらたされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?
ただ見守り、助けを求められた時に限ってサポートするのはOK
例えば、ホームレス支援の団体は他者の課題に該当するのでは?
介入とは、「勉強しろ!」とか上からの命令や強制を意味し、縦の関係性が生じている。
他方、援助とは「一緒に頑張ろう!」とする上下関係のない横の関係性であり、勇気付けである。
つまり、ホームレス支援は他者の課題に該当しない援助に該当するので、介入には当たらない。
他者の課題に踏み込んではいかないということは、他者もまた自分のために存在しているわけでもない。また、自分も他者のために存在しているわけではない。最終的な結末の責任は自分にあるからだ。
カウンセリングなど援助はするが、ライフスタイルを変えましょうという介入まではしないので、相談者の人生を変えてくれることはない。
つまり、自分を変えることができるのは自分しかいない。
○他者を信じることは自分の課題
その期待や信頼に対する他者の行動は他者の課題
希望通り行動してくれなかったとしても、信じることができるのか?人生のタスクの一つの愛のタスクに通ずる。一方で、課題の分離の線引きが分かっていないと、自分の希望を押しつけてしまい、ストーカーのような介入に陥ってしまう。
○見返りに縛られてはいけない
見返りとは、先ほどの課題の分離と逆の発想である。見返りの発想からすれば、これだけ与えたのだから、これだけ返してくれと言いたくなるものだが、課題の分離の立場から考えると、それは相手の課題であり、自分が介入してはいけない領域であると。つまり、課題の分離の立場から見れば、見返りを求めてもいけないし、縛られてもいけない。例えば、誕生日プレゼントをあげたとしても、相手にそれを求めてはいけない。逆に相手からプレゼントをもらったからといって、そのお返しをする必要もないとも言える。感情的には非常にドライに見える。
○誰からも嫌われたくない不自由な道or承認なき自由な道か
嫌われたくない道とは、他者からの承認欲求を望む不自由な生き方であり、自己中心的な発想である。何故これが自己中心的な発想なのか?他者の機嫌や期待、視線を伺いながら生きている。課題の分離ができていないがゆえに、相手にもそれを要求してしまう。つまり、自分の欲求を相手に望んでしまってる。
例えば、親が子に対して
「勉強しろ!」
「会社はここにしなさい」
「結婚相手は○○」など
課題の分離ができていない=周囲から嫌われたくない道を選んだ親は、他者の期待や視線を伺いながら生きてきた、つまり、他者の望みを叶えて生きてきたのだから、子に対しても同じように自分の望みを叶えてほしいと思ってしまうのです。これが自己中心的な発想に陥ってしまうということであると。
即ち、他者の課題に介入する(今回の例でいうと親が子に対して)からこそ、自己中心的な発想に陥ってしまうのだ!
○自由とは嫌われることである!
さて、著書のタイトル回収です。自由とは、他者の評価や嫌われることに対して、恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払う必要がある。他者から嫌われろ!ではなく、嫌われるのを恐れるな!
自由のイメージで、進撃の巨人のエレンが浮かびました。以下、一部進撃の巨人のネタバレあるので注意!
後半、エレンは漫画でいう所の闇堕ちのような風貌になっていますが、自由とは思えない姿です。しかし、それは進撃の巨人自身に備わっていた未来を見通す力があり、今後の未来をどのようにすれば、同期の仲間達が救えるのかを塾考した結果でもあると。
そこでエレンが下した決断は、エレンが始祖の巨人になり、地ならしを発生され、人類の7割を踏み潰す。何故、人類の7割なのか?まず、今後起きるであろう戦争を回避したかったからです。人類の7割も失えば、戦争は出来ないとエレンが判断し、その戦争で仲間を失うこともない。その未来を未然に防いだ結果の人生の7割の犠牲です。エレンは最終的にアルミンに倒され、アルミンは英雄視されます。この未来を実現するためにエレンは自分自身がある意味ヒール役に徹し、最後は海鳥のイェーガーが自由に空を羽ばたき、進撃の巨人の完結です。エレンは地ならし前に仲間から嫌われるようなことばかり言って、それを恐れなかったように感じます。それはエレンが自由であったからこそ達成できたのではないと思っています。